2月12日

  6時過ぎに目を覚ます。知人も珍しく早くから目を覚まし、ずっとしゃべり続けている。ほとんど平野歩夢の話。まだ酔っぱらっているのだろうなと思っていたら、朝の情報番組に登場した平野歩夢を見届けると、また眠りについていた。洗濯機をまわし、昨日のおでんの残りを平らげる。明日からの沖縄行きの支度をしつつ、RK新報の原稿を書く。昼近くにはおおむね完成し、知人の作るサバ缶とトマト缶のパスタで昼食。ビールを1本飲んだ。午後はいわきのプロジェクトのドキュメントに向けて、テープ起こしを進める。知人が昼寝をしているあいだに「I本店」に出かけ、日本酒を3本ほど買ってくる。17時、観劇に出かける知人を見送り、缶ビールを飲みながら溜まっていた日記を書く。

 19時、ビールから日本酒に切り替えて、部屋のあかりを暗くして、Netflixで『東京物語』観る。ずいぶん昔にDVDを借りてきて観てみようとしたことがあったけど、早々に再生を止めて、それきりになっていた。作家はどういう配置をするのか、色々栄養を取り入れたくて、観てみることにする(知人がいるときだと、たぶん知人は「それを観る気分じゃない」と言いそうだから、今日観ることにした)。冒頭から、全員の動きに振り付けを感じる。それは、今とは違う生活の中に動きだからということとは関係なしに、すべてが振付的だ。原節子だけが甲斐甲斐しく夫婦に接するところに異様さを感じていたけれど、ああ、そういうことかと、原節子の役どころがわかったところで腑に落ちる。原節子の所作、お酌は片手、店屋物をお母さんに先に差し出す。今のマナー講師的な所作が浸透する前の時代はそうだったのかなと、そんなことも思う。

 熱海にやられた夫婦が、「静かな海じゃのう」と語る場面で、思わず「あんたんとこのが静かに決まっとろうが」と言ってしまう。ずっと前に観たときはただ昔の話としか思えなかったけれど、とても透徹な視点を感じる。ほっこりと優しいようにも見えるけれど、突き放した視点がないと、こんなふうに描くことはできないだろう。途中で小津のプロフィールを見て、東京出身と知り、余計にそう感じる。上京してきた両親は、その内面のようなところは、ほとんど空洞に見える。その意味では、映画から半世紀以上経った今でも、そんなに変わらないところもある気がする。年老いた父が、ほとんど「ああ」とか「うん」とかしか言わなかったところから、旧い知り合いと再会してお酒を飲んだときに、ようやく内心めいたっものを語る場面も、その構造、その描き方に、冷ややかさを感じる(これは冷ややかさにケチをつけたいのではなく、何かを描く上での冷ややかさについて考えさせられた、ということ)。最後まで観終える前に知人が帰ってきたので、再生を停めて、布団に横になりながらバラエティ番組を観た。