3月1日

 7時過ぎに目を覚ます。いつもより早めに朝ごはんの支度をする。納豆ごはん、インスタント味噌汁、きんぴらごぼう、ししゃも3匹。S・Iのドキュメントに向けてテープ起こしをして、10時25分に家を出る。千代田線で西日暮里に出て、山手線を待つあいだも、パソコンを広げてテープ起こしをする。数分経ったところでホームにアナウンスが流れる。その音声を聴き、これから上野・東京方面に向かうはずなのに、いつもの癖で池袋方面のホームに来てしまったことに気づく。向かいのホームに目をやると、自分が乗るはずだった山手線が発車するところだ。これで遅刻が確定してしまい、Y.Fさんにお詫びのメッセージを送りつつ、反対側のホームに移動する。

 11時32分、目的地に辿り着く。駅前でY.Fさん、K.Kさんと合流して、MRYM邸へ。個人の住宅だが、建築の世界では有名な建物であるらしかった。そういうおうちに住んでいる方というと、癖が強めというか、趣味がはっきりしているというか、人に対してもちょっと圧が強めな印象があるので身構えていたのだが、出迎えてくださったMRYMさんは全然そんなタイプではなかった。建物を案内してもらいながら、ぽつぽつ話を伺う。来月開催予定の展示会について、ぼくも少しアイディアを求められたので、少しだけ意見を出す。意見というほどのものでもなく、「橋本さんの言葉をここに展示するなら」と言われて、いちばん自然に思えたことを伝えただけなのだけれども、Y.Fさんからも、MRYMさんからも「そんなアイディアがあるとは」と言われて、ちょっと嬉しくなる。

 しばらく経ったところで、テーブルにつき、皆でお茶をいただきながらぽつぽつ話を伺う。MRYMさんは普段、ひとりで過ごしているときはお酒を飲まないそうだけれども、誰かが遊びに来てくれたときだけお酒を飲むそうだ。お茶を出してくださったあと、少し申し訳なさそうにしながら、ノンアルコールビールを持ってきて飲まれていた。アルコールが入っているビールを飲んでくださっても全然いいんだけどなと思う。Y.Fさんに関連する取材は、かちっとした「取材」という感じでもないので、普段なら一緒にビールを飲んでいただろう。

 気づけば時刻は14時をまわっている。今日は何時に終わるんだろうかと、少しぴりっとした気持ちになってしまう。時間のことというよりも、普段はまだソファに寝転がって過ごしているから、こんなに長い時間立って過ごしているのは久しぶりだ。まだ万全ではないことを伝えておけばよかったなと思いながらも、途中で「そろそろ患部が不安だから帰ります」と言いだすと気を遣わせてしまうだろうし、まだ撮影が残っている感じなのに、現場の空気が変わってしまうのも微妙だななと思って、黙っていた。14時50分ごろ、お礼を言ってMRYM邸をあとにする。MRYMさんはこのあと、名物だという羽付き餃子のお店に僕らを案内しようとしてくれていたのだけれど、Yさんと一緒に駅に向かう(KさんはMRYM邸に残り、しばらく過ごしていくようだった)。こういうときのためにも、早く健康にならなければと思う。

 いちど家に帰り、ソファに横になって体力を回復させたのち、折りたためる円座クッションを持って神保町へ。17時過ぎ、「ランチョン」の前で知人と待ち合わせ。先週の段階で、「お酒を飲んでも問題はない」と医師に言われていたけれど、念の為にと2月いっぱいは酒を控えていた。もう3月になったことだし、ここらで一回ビールを飲んでみようということで、「せっかく久しぶりにビールを飲むなら」と、「ランチョン」を目指したのだ。ひと足先についた知人から、「ほぼ満席」で、店員に聞いたけど窓際の席は空いてないって言われたとLINEが届いていた。「ランチョン」の前で知人と合流し、2階を見上げてみると、窓際に空席があるのが見える。さっき知人が「店員に聞いたけど、窓際は空いてないって言われた」という言い方が微妙に気になっていたので、「ちょっと、先にひとりで入るから、1分経ったら入ってきて」と伝えて、ひとりで入店する。窓際の席は小さいテーブルだけ空いていた。階段を上がったところで、店員さんに「あとからもうひとりきて、ふたりになるんですけど」と伝えると、お店の奥のほうの空席を確認してくれている。店員さんに声をかけ、あ、ここの窓際の席でもいいですかと尋ねると、ちょっと狭い席になっちゃいますけどいいですかと、そこに案内してもらえる。僕はここの窓際の咳が好きで、テーブルが狭かろうが窓際がよいのだけれども、空席があってもそこに案内してもらえないことがある。

 席についたあたりで知人も階段を上がってきて、ビールを頼んで乾杯。18日ぶりに飲んだビールは苦く、発酵した味がする。たった18日飲まなかっただけで、ビールってこんな味だったっけと思うのだから不思議なものだ。知人からは数日前に「もう酒を飲まん生活でもええんやないん」と言われていた。「酒飲まんでも平気そうやん」と。たしかに、知人と一緒に夕飯を食べながらテレビを観られれば、それで楽しく過ごせるところはある。そこに酒がないほうが、観た内容もはっきりおぼえていられる。ただ、どうしても「酒を断つ」という発想には辿りつけない。酒が好きだという以上に、自分の生活を理性によってコントロールしようとすることに違和感がある。それに、酒を飲まないでいると、ずっと意識が明瞭なままだ。

 まずはサーモンのマリネとソーセージの盛り合わせを注文する。ソーセージって超詰めなんだなと実感する歯ごたえだ。店内はほぼ満席で、来店した客がしばらく階段のところで待っている時間が続く。奥のほうに数十人の団体のお客さんがいて、今日は大賑わいだ。もうマスク会食なんてしているグループは他には誰もいなかったけれど、まだ白い目を向けられるほどでもないなと感じる。店員さんもマスクをしないのが普通になれば、また変わってくるのだろう。ビールを2杯飲んだところで、メンチカツを注文し、ビールはハーフ&ハーフに切り替える。

 窓際の席だから、たっぷり風景を眺める。さっきまで近くのテーブルで熱燗を飲んでいた3人連れのひとりが、今は路上に佇んでいるのが見えた。わりと高齢の男性だけれども、スーツ姿だ。左端の車線の真ん中に立ち、タバコを吸っている。どうせ捨てるんだろうなと思って眺めていると、やはりタバコを路上に投げ捨て、手を挙げてタクシーを拾って去ってゆく。品がない。せっかく「ランチョン」で飲んだあとの時間ぐらい、もっとスマートに過ごそうと思わないのかと考えてしまうけれど、そんなことを考える人はもうほとんどいないのだろう。視線を店内に戻すと、デミグラスソースにはハーフ&ハーフがあう、やっぱりハーフ&ハーフにしてよかったと、知人が嬉しそうにしている。

 ひとりのときはメンチカツだけでわりと満腹になるけれど、今日はふたりだからもう少し食べられそうだ。「カレーライスも気になる」と知人は言っていたけれど、カレーを食べるならここじゃなくてもいいだろうと却下し(「別に、ここのお店にもカレーライスがメニューにあるのだから、カレーを頼んだっていいじゃないか」と知人は反論し、それは正論ではあるのだけれども、「ここはこのメニューを食べる店」という偏狭さもまた正しいのだということを「恩師」に教わったと思っているし、ここはまさに「恩師」に教わったお店でもあるので、カレーは却下して)、最後にビーフパイを注文する。

 ビールを4杯飲んだだけですっかり酔っている。帰り際にH社に寄り、ポストに封筒を投函しておく。本当は今日の夕方に「届けにいきます」と伝えておいたのだけれども、昼過ぎになって「今日は座談会が収録する予定があって、何時ごろ来社されますか」と確認のメールが届き、ただ添え状の入った封筒を届けにいくだけなのに、それと座談会が収録中なことと何の関係があるのかと、臍を曲げかけていた(誰かが来社することがノイズになるなら、別の場所で収録すればよい話だし、こちらとしても封筒を届けたついでに居座って話していくつもりもないのに、なにが影響することがあるのか――と)。添え状というのは、献本に同封してもらうつもりのもので、一昨年まで読書委員を務めていたYMUR新聞宛のものに添えてもらうつもりのものだった。その封筒を、ひとまわり大きな封筒に入れ、H社のポストに入れておく。