3月25日

 10時過ぎに家を出て、白山駅から都営三田線に乗り、三田に出る。電車はわりと混み合っていた。都営浅草線に乗り換えて、泉岳寺に出て、三崎行きの快特に乗車する。「ウイング・シート」という指定席があると知り、泉岳寺に向かうまでの道中で予約しておいたのだが、他の車両は立っている乗客が出るほど混み合っていたので、予約しておいてよかったなと思う。ただ、他の鉄道会社の特急に比べて、テーブルもなく、窓辺にも微妙な傾斜がついているからそこにも飲み物を置けなくて不便だし、座席と座席の間隔もかなり詰まっている。料金はひとり300円だから、そんなに贅沢は言えないのだけども。

 横須賀中央駅で半分近い乗客が降りて行き、横須賀は大きな街なのだなと感じる。12時15分ごろに三崎口駅に到着し、バスのりばに向かうと、それなりに行列ができている。ゆったり座りたいなと調べてみると、12時19分発のバスが出たあと、21分発のバスでも三崎港に出られるようなので、1本見送り、ゆったり三崎港に向かった。到着するとまず、「まるいち」という魚屋さんを目指した。魚屋さんと、その隣に食堂がある。それとは別に、外で食べられる席もあって、せっかくだからそこで食べることにする。刺身5点盛りと、「今日のは間違いない」と店員さんにおすすめされた煮付けと、ご飯と味噌汁のセットを2つ、それに生ビールを2杯。合わせて4500円。ウマイウマイと言いながら、魚を頬張る。知人はあっという間に味噌汁を飲み干していた。ビールを2杯追加して、まだ足らなくて、追加で1杯頼んで知人と分け合った。

 開場時刻の14時には移動して、鉄割が上演される会場へ。14時半から上演が始まったのだが、どうしても舞台だけに集中できず、会場に集まった観客に意識が向いてしまう。著書のタイトルを借りれば「厄介な男たち」、帯の言葉で言えば「ヘンテコおじさん」が舞台上で演じられていくのだけども、それを東京からやってきたのであろう観客が、持ち込んだ酒の缶を片手に大笑いしている様は、なんともいえない心地がする。自分も東京からやってきた観客のひとりなのだが、「ヘンテコおじさん」の様というのは、そうあらざるを得ないひとびとのおかしみというのは、そんなに大笑いしながら眺めるような種類のことなのだろうかと考えてしまう。

 その「東京からやってきたのであろうお客さん」の中には顔見知りもいる。僕はその酒場によく顔を出していたけれど、最近はずっと足を運ばずに、不義理が続いている(ただ、それはコロナ禍となって間もない頃にお店を訪ねた際に、マスクをしたまま入店すると、「なんだ、マスクなんて外せよ」と隣の席の客に絡まれた影響が大きい)。時間が経ったことで自分の感覚が変わったのだろうか。

 16時半から湯浅さんのライブが予定されていて、当初は駐車場で演奏されるはずだったのだが、雨のために会場が変更になると発表されていた。新たに発表された会場は小さなカフェといった佇まいの場所だ(当初の開催場所である駐車場の真向かいにある)。店内は満席だが、建物の壁から小さなテーブルがひとつだけにょきっと生えていて、そこでも飲めそうだったので、ビールを注文してライブを待った。予定時刻が迫ったあたりで酒が切れ、追加でワインを注文しようとすると、「もしかして、ライブを見ようとされてます?」と店員さんに尋ねられる。そうなんですと答えると、「また会場が変更になって」と知らせてくれた(ウェブサイトには再度変更になった旨は記載されていなかった)。

 16時半、さきほどと同じ会場で湯浅さんのライブを観る。しみじみ良い時間だった。ライブを観ながら、「ヘンテコおじさん」の系譜について考えていた。この世界の片隅にいる、世の流行り廃りとは違った時間軸の中にいる、自分の世界と向き合い続けている変わったおじさん。そんなおじさんが、自分と同年代から生まれてくることはあるだろうか。

 この日は18時からトークイベントが開催されることになっていた。登壇者のひとりに郁子さんがいて、もし遭遇できたら新刊を手渡そうと思っていたので、なんとなく会場の前を通りかかってみると、まだ会場は設営中だったけど、奥に郁子さんの姿が見えた。郁子さんもこちらに気づき、手を振ってくれる。ただ、これからイベントがあるというのに、ずかずか入って行って本を手渡すのも、出てきてもらおうと手招きするのも気が引けて、手を振りかえして通り過ぎる。

 小腹が減ってきたので、気になっていた中華料理店「ポパイ」へ。肉ニラ炒めと餃子をツマミにビールを飲んでいると、女性の一人客がやってきて、「いつもいしい先生は何を召し上がられるんですか?」と店員さんに訪ねている。今日と明日は、ここに暮らしていた作家の名前を冠したお祭りが開催されていて、その方は湯浅さんのライブで前口上も述べていた。作家と土地のかかわりとして、なかなか稀有なありかただと思う。〆にラーメンを啜り、たしか19時45分ごろの終バスで三崎口まで戻り、特急に乗り込んだ。

 それにしても、三崎港まで電車が通っていなくて、三崎口が終点になっているというのは不思議に思える。どうして三崎港まで線路を引かなかったのだろう。そして、三崎という町はどんな歴史を辿ってきたのだろう。まぐろなんて大昔はそんなに釣れなかったはずだから、昔はもっと違う魚がメインだったのではないか。横浜ですら開港前は村だったというけれど、その時代の三崎はどんなところだったのか。石造りのモダンな建物が目につくけれど、大正時代あたりから栄え始めた町だったのだろうか。今では魚を食わせる店が何軒もあるけれど、観光客がやってこない時代、ここが漁師町だった時代には、ほとんどの人が漁師だったとすれば魚を「買う」人なんていなかっただろうけど、どれぐらいの時代からここで魚屋という商売が成り立つようになったのだろうか。そんなことを今日はぽつぽつ知人に話していて、そのたびに厄介そうな顔をされた。旅に出ると、そんなことばかり考えるようになってきている。三崎は「旅」と言いたくなる距離だった。横浜に行くのでもそれなりに時間がかかるのだから、考えてみれば当たり前のことなのだけれども、なかなか遠い場所だった。