ヨーロッパのスーパーマーケットで楽しいのはヨーグルト売り場だ。日本の何倍かのヨーグルトが並べられていて、お昼には毎日違うヨーグルトを食べている。今日のヨーグルトはハズレだ。食べる手を止めたまま視線を落とす。「今、おいしかった?」とあゆみさんに訊ねられる。僕は首を振って答える。「あ、逆の顔だったんだ? 橋本さんね、自分が食べてるものをまじまじ見てるときがあるんだよ?」とあゆみさん。そんなとき、あるのか――自分の行動を振り返って考え込んでいると、「あと、橋本さんから声が聴こえてきそうなときがありますよね」とゆりりが言う。「何も言ってないんだけど、心の声が聴こえてくるときがある」。彼らの滞在を見つめているのは僕だけど、僕もまた見返されていることに気づいてハッとする。

 お昼ごはんを食べ終えたあとの楽しみはテキストを読むことだ。

 『IL MIO TEMPO』には日本語とイタリア語が混在している。日本人の役者は日本語を、イタリア人の役者はイタリア語をしゃべる。英語でその壁を埋めようとすることはない。イタリア語と日本語が通じ合っているというルールで作品は進行する(稽古をしていると、実際に通じ合っている瞬間もある。藤田さんの指示が、通訳を介さずとも伝わっていることがあるのが不思議だ)。

 藤田さんの作品は、完成した戯曲をポンと役者に手渡すのではなく、その場で思い浮かんだ台詞を役者に口伝する。でも、イタリアの皆に口伝することは不可能なので、あるシーンでは質問に対する皆の回答をもとにシーンが作られ、またあるシーンでは皆の即興芝居をもとにシーンが作られる。最初に演じられた即興芝居の内容は、その場で太郎さんによって翻訳して藤田さんに伝えられる。その即興に対して、「そこでこう言ってみることにしようか」と藤田さんが編集を加えてゆく。稽古が終わると、それらの台詞は書き起こされ、翻訳され、翌日の稽古が始まるまでにこうして手渡してもらえるというわけだ。イタリアの皆がどんなことを言っているのか、細かいニュアンスはその場ではわからないから、刷り上がったばかりのテキストを読むのは楽しみだ。しかし、それにしても、翻訳チームのやっている作業は大変な作業だと頭が下がるばかりだ。

 今日の稽古は、皆にチャプター割りと全体の構成を伝えるところから始まった。そうして最初のチャプターから順に稽古が始まる。ここまでの稽古には登場していなかったチャプターもあるが、その多くは既に稽古してきたものだ。今日の稽古では、ついにシーンに対して音楽が加えられた。「じゃあ、次のチャプターやってみよう」。藤田さんの言葉に、役者の皆はシーンを演じ始める。藤田さんはその姿をしばらく見つめたあと、おもむろに立ち上がるとCDJの前に立ち、音楽を始める。少し感触を確かめると「じゃあ、もう一回」と中断させて、今度はシーンの冒頭から音楽アリで演じさせてみる。まだどこか二次元的だった作品が、三次元として立ち上がってくるのを感じる。一読すると2日前の滞在記と矛盾するように思われるかもしれないが、次第に“藤田さんの作品”になってゆくのを感じる。

 「(目の前にいる人のことを)見てきたと思ってたけど、見てなかったんじゃないのって気持ちは年々大きくなってきている」――おととい話を聴いたとき、藤田さんはそう話していた。だからこそ、今回は出演者全員にインタビューをするところから始めて、その回答をもとにシーンを作り、ひとりひとりの記憶や身体というものをしっかり見ようと作業を続けてきた。

  ここで問題になるのは、ある人から聞き出したエピソードを本人に語ってもらうことが一番リアリティのあることであるのかということだ。その答えは、必ずしもイエスではないはずだ。こうしてドキュメントを書き記している僕は、当の本人が持つ力、そのリアリティを信じてもいる。演劇作家である、つまりフィクションを描く藤田さんだってそのリアリティを信じてはいるだろう。ただ、ドキュメントにせよフィクションにせよ、必ず編集が施されている。肝心なのはその手つきだ。

 あるシーンの稽古をしているときのこと。藤田さんはしばし考え込んでこう言った。「このやりとりはカットしてもいいんだけど、もったいないんだよね。カットすることで縮めちゃうってのはもったいないんだよ。だから、やることを変えるんじゃなくて、テンポを早くして短くしたくて。どこか引き算するんじゃなくて、凝縮するってことでやっていきたいんだよね。だから、この音楽を聴きながらリズミカルにやってほしい」。藤田さんが役者の皆にそう伝えると、ルイーサまで小さく踊り出す。

  ある二人のやりとりがあるとする。漫才を例に出すまでもなく、人間の会話というのは間とテンポによって印象がまったく違ってくる。一緒に作品を作る役者のことを、藤田さんはきっと、誰より理解していると思っている。当の本人以上に理解していると思っている。その人の良さ、その人のおかしさ、その人のキュートさを、本人よりも知っていると思っているはずだ。だからこそ、本人が自分でしゃべりたいようにしゃべらせるよりも、藤田さんの編集を加えたスピード感、藤田さんの編集を加えた台詞を語らせることで、その人の持つ何かが最大限に観客に伝わるようにしているということが、一つにはある。

 作品に対する編集作業――今日はそのことを考えさせられる1日だった。17時に稽古を切り上げると、車で5分ほどの施設に移動し、藤田さんを囲んだアーティスト・トークが開催された。まず、制作スタッフのルイーサが今回のプロジェクトの概要について説明をしたあとで、藤田さんが話し始める。そこで語られたことの一部は、こんな内容だった。

「3年前にフィレンツェで公演して――それが僕の初めての海外公演だったんだけど――そのときにルイーサと出会って。そのときのミーティングで話したのが『いつかイタリア人の俳優と僕がコラボレーションできたらねってことで。去年のイタリアツアーでは、メイナ、ポンテデーラ、アンコーナメッシーナの4都市で活動したんだけど、自分の作品で公演をするってだけじゃなくて、その土地土地で俳優とワークショップをやったんですね。今回出演してくれるイタリア人の俳優の4人は、メイナでのワークショップに参加してくれて、そのときにすごく感触がよかった4人なんだよね。それと、ルイーサも今年の初めに2ヶ月ぐらい日本に滞在してくれて、そのとき僕はちょうど新作を作ってたんだけど、その新作に向けた稽古やオーディションも全部見てくれて、僕の作り方とかリズムを丁寧に見てくれたんですよね。そういうこともあって、とにかくイタリアに思い入れが強くなってる部分がありますね。

 それで――日本で作品をつくるときは自分の記憶をテーマに書くんだけど、今回は僕の作った物語を押し付けるのではなくて、皆に僕がいくつも質問をしてるんです。その質問から出てきた答えを、一回僕の身体を通すことで、一つの物語をつくろうとしていて。たとえば、カミッラから聞いた話をサラにやってもらうこともあるし、実験的に断片を作ってますね。今回は8人の俳優がいるんだけど、自分がどういう答えをしたかってことも忘れるぐらい、8人の俳優が混ざっちゃってる。そうやって実験的に断片を作ってるんだけど、その断片を「一つのホテルで起きたこと」ってことでまとめあげようとしてますね。

 僕が日本で演劇をやってるときに感じることって、どこまで皆に伝わるか不安だったんだけど、国籍は違うんだけど、同年代だっていうことで伝わることが多くて。どうしても壁っていうものはあるにせよ、皆で作ってるってことを諦めたくない。3年かかってここまで関係をつくってきたけど、日本人以外の俳優を僕の作品に出すのは初めてのことで。ある意味では僕が書いてきた作品を「やってください」って渡すほうが楽なのかもしれなくて、あえて回り道をしてるのかもしれないんだけど、今ここに集まってくれてる皆の人柄に惹かれてここにいるってところはある。それは「イタリア人だったら誰でもいい」とかってわけじゃなくて、ひとりひとりのパーソナルなところが好きだから、耳を傾け続けたいし、皆が言った言葉を“抽出”して一つにしてみたいと思ってます」

 話を聞いているとき、今稽古が進められている作品に詰まっている楽しさのことを思い浮かべるのと同時に、ときどき予感として伝わってくる寂しさや仄暗さのことを僕は思い浮かべていた。僕が見学している範囲では、まだ暗いシーンというのを観ていないけれど、どこかともなくその時間の気配を感じさせられている。ホテルを舞台とした『IL MIO TEMPO』は、プロローグのタイトルが「チェックイン」であるのに対し、エピローグのタイトルは「チェックアウト」だ。そこには別れが待っている。僕たち自身もまた、公演が終わった翌日の早朝にはこの町を去り、皆とも一旦別れることになる。

 1時間ほどでアーティスト・トークは終了した。劇場に引き返したところでイタリア人の皆とは別れて、パノラマで買い出しを済ませ、分担して料理をする。21時に完成すると、いただきますをする。

 「日本人だけの晩ごはんは今日が最後だね。どうする? 何の話する?」
 「石井君の話する?――もう飽きたか」
 「うん。し飽きたね」
 「今日はきのこがたくさんだ」
 「秋だからね」
 「そうだね。秋だね」
 「あ、このスープ、しいたけが入ってるんだ! だからこの味なんだ?」
 「あんかさ、イタリアの皆に作ってもらったごはんもおいしかったけど、今日のはほっとする味だね」
 「たかちゃんが炒めてくれたソーセージも美味しいよ?」
 「これ、醤油が入ってるんだよね」
 「結局うちらは醤油ってことだね」

 和やかに食事をしている風景を眺めていると、今日の作業はもうすっかり終わって、あとは眠るだけのようにも思えてくる。だが、食事と後片付けを済ませて一息つくと、23時に劇場に集合することになった。発表会が近づいてきたこともあり、日本人の役者だけで稽古を進めることになったのだ。といっても、日本人同士のシーンがあってそこを稽古するということではない。イタリアの皆に覚えてもらう台詞をフィックスさせるために、翻訳されたテキストを検証しながら、言葉をフィックスさせていく作業だ。

「じゃあ、プロローグからやってみよっか」

 藤田さんの言葉で、プロローグから稽古が始まる。アンドレアの役を荻原さん、ジャコモの役を波佐谷さん、サラの役をゆりりが担当する。本来はイタリア語で語られているシーンを、日本人の役者が日本語で演じるのを耳にすると、イタリア語というものに備わっているリズムや印象が浮き彫りになる。それと同時に、イタリア語の響きってことで受け取っていた言葉の一つ一つを、改めて考え直すことになる。

 「ここ、アンドレアは(即興芝居で)『お泊りですか?』って聞いてるけどホテルの従業員の言葉としては『ご予約ですか?』だよね」
 「そうだね。ホテルに来てるってことはもう、泊りにきてるもんね」

 そんなふうにして、言葉の一つ一つを確かめていく。この作業に限って言えば、インタビューや対談の構成に近い作業だ。テープ起こしそのままでは伝わりにくいこと、当人がその場で言い切れなかったことを、適当な言葉に編集して、最大限本人の言葉を尊重しつつも、最終的にはマームとジプシーの文体に近づけていく。

 印象的なのは、代役とはいえ実際に役者に言わせて考えているということだ。文字として認識するよりも、音として認識するほうが把握しやすいのだろう、役者がしゃべってみた言葉に対して藤田さんは細かな修正を次々施していく。気の遠くなる作業だ。

 2時間半経っても終わりは見えず、明日の作業のことを考えて役者はもう寝てもらうことになった。薄暗い劇場の中、藤田さんは作業を続けていた。これを書いている今、午前2時50分になってようやく作業はひと段落して、藤田さんは劇場からレジデンス施設に引き上げてくる。ただ、部屋には戻らず、ノートパソコンをキッチンに置いている。もしかしたら朝まで作業を続けるのかもしれないが、僕はここで力尽きて眠ってしまった。