2月23日

 3時過ぎには目が覚める。外は雨が降っているようだ。せっかくレンタカーを借りていて、今日の13時までに返せばいいのだから、どこかに行ってみようか。そうだ、作品の中に映像として登場する(そして一緒に何度となく足を運んできた)喜屋武岬の灯台を観に行こうと思い立つ。今日の日の出は6時59分だというから、明るくなり始めるのは6時半ごろだろう。その時間を目指して、セブンイレブンでホットコーヒーのLサイズを買って、6時に那覇を出発する。331号線にはほとんど走っている車は見当たらず、真っ暗な道をひた走る。このままだと、まだ真っ暗なうちに岬に到着することになりそうだ。それはあまりに心細いので、真栄里の交差点を曲がり、集落を走る小さな道路に入ってからは、ゆっくりのんびり走る。

 6時半ぴったりに、喜屋武岬に辿り着く。夕陽が沈む時間ならともかく、こんな時間に岬にくる人はおらず、駐車場に車は見当たらなかった。空は少し白くなり始めているが、あたりはまだ真っ暗で、灯台のひかりが一定の間隔で周囲を照らして回転している。その姿を見ているのは僕だけだ。これまで何度か夜に灯台を訪れたことはあったけれど、ひとりで訪れるのは今日が初めてだった。誰も見ている人がいなくても、灯台はこうしてひかりを放ち続けて、こうしてここにたっているのだと思うと、不思議な心地がする。何がどうなっても、灯台はそれとは関係なく、ここで回転し続けている。その様子を撮影して、公演が休止になってしまった人に届くことを期待しつつ、SNSに載せておく。友人のA.Iさんには直接送信しておいた。

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 少しずつ空が明るくなってきたところで再び車を走らせ、南部の海を数カ所めぐる。喜屋武岬の下側の海まで、『c』をめぐるWORKの映像を撮影するためにAさんと一緒に訪れたことがあるのだけれど、あれがどこだったのか思い出せず、しばらくぐるぐる車を走らせていたけれど、お腹が減ってきたのであきらめて那覇に引き返す。「上原パーラー」で150円のお弁当と、コンビニで海苔の味噌汁を買ってホテルに戻る。コンビニにオムロンの体温計が売っていたので、それも買う。早速測ってみると、37.1℃。自宅にある体温計もオムロンで、それでも普段は37℃前後と出るから、ほぼ平熱だろう(モニターに温度が表示されるタイプのやつだと1℃以上低く表示される)。買ったばかりの体温計は、計測後15分経つと音が鳴り、画面がオフになる。そのたびに電源を入れ直し、体温を測っておく。

 11時過ぎ、宿を出る。車を走らせ、中城村の護佐丸歴史資料館へ。本部町立博物館でポスターを見かけて気になっていた「久場崎と舞鶴 ふたつの港の戦後引揚げ」展を観る。戦後引揚げの話はちらほら読んでいたはずなのに、それがどこなのかということを、ほとんど意識したことがなかった。その中心となったのが、中城村東海岸にある久場崎港だという。そこは南部戦線に物資と兵士を送り込むべく、米軍が1945年の5月から6月にかけて建設したもので、港の近くに引揚者の収容所も建てられた。そこではアメリカーや県外出身者とトラブルが頻発したそうで、「おもしろくないなぁという事で爆発する。沖縄の場合はね」と当時を知る人の言葉が引かれている。仁義なき戦いで、刑務所内でちょっとした暴動が発生する場面を思い出す。

 展示を見て今更ながらに知ったのは、同じ引揚げ者でも、満州に渡っていた人と、南洋に渡っていた人とでは体験がまるで違っていたということ。ある家族の物語として、すごろくの別ルートのように、パネルが並列して展示されている。満州に渡った人たちは、終戦後にシベリアに抑留されると、思想教育を受けた。日本への引揚げが決まってからも、「こいつにはちゃんと共産主義の思想が根付いているか」と、疑り深くチェックをされたという。シベリアからの引揚げは舞鶴経由で、そこから沖縄に帰ってきてみると、沖縄を統治していた米軍から「こいつは共産主義に染まっているのではないか」と疑いの目を向けられたとある。

 引揚げ業務を終えた収容所跡地には、フィリピン人で構成される舞台が駐屯し、そこに地元住民が軍作業をしにいっていたという。駐屯していたフィリピン人の中には、女性めあてに集落にやってくる人もおり、トラブルもあったと記されてある。そこはのちに久場崎ジュニアハイスクールとして使われていたが、1981年にようやく全面返還が叶った。そこには現在では記念碑があり、車でそんなに遠い距離ではないというので、見学に行く。横殴りの雨が降るなか、記念碑と、かつて引揚げ船がやってきた港の跡地を眺める。

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 13時に那覇まで戻り、レンタカーを返却。久場崎で雨に降られてずぼんと靴下がびしょ濡れになっていたので、着替えてシャワーを浴び、13時55分にジュンク堂書店那覇店へ。今日は開催中の新春古書展の何連企画として、「古本屋バンザイ!」と題したトークイベントが開催される。登壇者は市場の古本屋ウララ、古書ラテラ舎、ちはや書房、小雨堂、そして司会進行にBOOKSじのんという布陣。基本的に沖縄の古書組合の若手4人によるトークで、冒頭の説明によると、このトークを聴きに来たお客さんが「自分も古本屋をやってみよう」という思いになってもらって、仲間を増やそうという趣旨のもと、開催されるものらしかった(会場で初めて知った)。

 15分おきの検温は続けていて、特に体温が上がっている気配もなく、KN95マスクをつけてはいるものの、念には念をと椅子には座らず、あまり人がいない棚の前に立ちつつ、トークを立ち聞きする。天久さんの司会により、事前に送られていたという質問事項に若手4名が答える形でトークは進む。沖縄の古書店種は、かつては脱サラ組が多かったそうだ。そして、コミック・文庫・アダルトが三本柱で、扱うジャンルも満遍なくだったが、今の世代は自分の興味・特性を活かした店づくりをしている、と天久さんがいう。その上で、「もっといろんなジャンルを扱う古本屋が増えてほしい、そうすれば『その本ならあの店に』と言える」と、天久さん。

 途中で「市会」(古書交換会)の話にもなる。天久さんが「古本屋同士のつながりを実感できるのが市会」だという話をすると、“地縁”がないまま沖縄に来て、すぐに古本屋になったというちはや書房さんは、古本屋さんの繋がりが「家族的」だと語る。「家族的」という言葉は、たしかトークの中でもう一度登場していた。たしかあれは、開業資金を節約しようと思えば、先輩たちを頼ればどうにかなる、自分も新しく古本屋をオープンするという人がいたら、できるだけ手伝ってきた、という話の流れだったと記憶している。そのつながりを指して、「家族的」という表現が用いられていた。その「家族」という言葉の手触りを、古武術の棚を凝視しながら反芻する。

 「古本屋になりたいという人を増やそう」という趣旨だけに、登壇者たちに対しては、開店にあたってどれぐらい費用がかかったのか、という質問も向けられていた。そこではかなり具体的な金額が語られていて、ちょっと動揺しつつも、こまごまメモを取っておく。

本の売れ行きについての話では、ネット販売の話にもなった。かつては沖縄関係の本でも、「こんなに難しい本を、誰が読むんだろう?」というものでも、目録に載せておくと注文が入っていたし、目録をちゃんと作れるのが格だった、と天久さんが言う。これは東京にも共通することだろう。今の時代には、ネットに登録しておくと、値段に間違いがなければ売れる、という話になる。昔は年度末に数百万のまとまった注文が入ることも多く、それに対応できるようにと在庫を抱えておく必要があり、「倉庫商売」が成り立っていたけれど、今は公共機関からの注文も少なくなり、商売も変わらざるを得ない、という話もあった。それも東京にも通じる話だろう。そういったことも含めて、「どういう人が古本屋に向いていると思うか?」という質問に宇田さんが答えた、「待てる人」という言葉が印象に残る。